フトコロブクロ

CGアーティスト、何思う。

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アート的葉隠れ、身を隠すグッズ

shoukaki3.jpg

別に隠れん坊をしているわけではありません。これ、真面目な防犯グッズだそうです。近頃は、児童が狙われる事件が多発しているので、そのためのものでしょうか? 笑ってしまいますが、心のどこかで「ひょっとして案外使えるかも・・」と思わせるところがアートです。こんなのがランドセルに付いてたら子供は大喜びですね。

shoukaki2.jpg

shoukaki.jpg


他にも女性用の「瞬間自動販売機スカート」や置き引き防止用「マンホール・バック」もあります。詳しくはこちらで>>



もう一つは男性用で、「会社で身を隠すコート」らしいのですが、意味不明です。仕事をサボりたいときに隠れるためのものでしょうか? それとも上司に叱られて、いじけるためのコートでしょうか? どちらにしても悲哀を感じるフォルムです。
hideaway _corporate


こちらは家庭用「身を隠す毛布」です。子供の頃、押し入れで毛布にくるまって、すねていたのを思い出します。家族から疎外されたお父さんの安住の毛布(地)なのかもしれませんね。でも、もぐり込むと癒されそうな気はしますが・・。
hideaway _custom


会社用家庭用と両方揃えると、かなり現実逃避できるような気がします。

Rosalie Monod de Froideville

| アート・デザイン | 22:38 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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共産主義の怨念を放つ「ゲバ文字」フォント

共産主義者がフォントを作っていたとは知りませんでした。

しかも政治結社エコノミストの怨念が込められているそうであります。文字に「気」を込めるというのは聞いたことがあるので、フォントに怨念が込められていても不思議ではないのだが、さて使い道はどうなのだろうか・・? この怨念をプラスに転化させるには、やはり反対集会やデモなどの、ビラやチラシの文字として使うのが正解だろう。たとえば、近所にマンションが建つとき「マンション建設反対!」とか「自然を壊すな!」とか・・使い道は色々ありそうです。そんなとき、このゲバ文字フォントが怨念をもって力を与えてくれるはずです。

gebamoji.jpg


「ゲバ文字」フォントのダウンロードはこちら>>

moyu at himote.org

| アート・デザイン | 21:41 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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Flash職人、文字で語る映像

Flashは、主にベクター・アニメーションを制作するツールで、これを使ってアニメーション作品などを作る人たちを一般的にはFlashクリエーターと呼んでいるが、それとは一線を画すFlash職人と呼ばれる人たちがいる。
明確な線引きは不明なのだが、商業ベースとは異なるフィールドで活動しているのが特徴だろう。
Flash職人たちがつくるものにも多様なジャンルはあるが、ここでは文字や写真をスライドさせ、ただ読ませるだけの単純な映像を見てみることにする。


まず、Flash職人の作品を見る前に、京都で起こった「認知症の母親殺害事件」のニュース・ソースを見てください。
ニュースなので、たくさんの取材映像や法廷イラスト、アナウンサーやレポーターのコメントなどを総動員してうまくまとめている。(プロだから当たり前)





この「認知症の母親殺害事件」のニュースをFlash職人がつくるとこうなる。



前のニュース・ソースと較べると、ずいぶんシンプルだ。特別目新しくもない、ただ文字と写真をスライドさせ音楽を入れただけのものだが、シンプルなぶんニュースに奥行きと物語性が強調され、意外と効果が絶大なのが解る。下手なプレゼンより心に届く。おそるべしFlash職人
もちろん内容にもよるが、映像の中で読ませる文字がこれほど力を持つということを再認識させられた映像でもある。携帯小説の短編なんかで、こういったジャンルが出て来るとおもしろいと思うのだが・・。


他にもネット上で有名な作品を紹介しておきます。

野球、ごめんね
さよなら青い鳥
日本とトルコ
大和魂とポーランド魂



| 映像/アニメーション | 11:14 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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平面(二次元)とヴォリューム(三次元)のパサージュ

最近、キャノン・ピクサス・プリンターのCMで「プリントはどっち?」という、本物とプリントアウトしたものを比較するCMがよく流れている。



実際の三次元空間では間違えようがないのだが、固定されたカメラとモニター上ではそれが起こる。典型的なカム(カメラ)・マジックなのだ。


もっと解りやすいカム・マジックがYouTubeにあったので見てほしい。人間の視覚というのは、三次元を位置関係などの位相的性質で判断しているのが良くわかる。




私は、3DCGソフトでワイヤーフレームやポリゴン表示で作業しているとき、これと似たような錯覚を起こすことがしばしばある。遠くのオブジェが手前に見えたり、角度によってへこんでいるものがふくらんで見えたりする。これは「線」という二次元で仮想三次元空間を構築していて、さらにそれを二次元のモニター上で認識し、作業しているからである。

こうした二次元と三次元のパサージュを見るとき、まだ四次元思想が元気だった頃のデュシャンのアンフラマンス(超薄)の概念を思い浮かべてしまう。デュシャンのアンフラマンスについては謎も多く、理解するのは難しいのだが、中沢新一は次のように解説している「二次元平面という概念が物理的な意味をもつためには、それは三次元方向にむかって「超薄」の厚さをもっていなければならないだろう。デュシャンは、この考えをさらに押し進めて、あるひとつの形態が他の形態に変化していくとき、トポロジカルな意味で本質的な変容がおこる、まさにその瞬間のことを、アンフラマンスとしてとらえようとした。たとえば点が線になり、線が面になり、面が立体に変化していく。変化はどの場合もカタストロフィックにおこる。そのそれぞれの変化がおきる瞬間に、線は「超薄」オーラのひろがりを自分のまわりにつくりだし、そのオーラがつぎの瞬間には、三次元方向の厚さに変化し、線は面に変貌していくのである。」(東方的「四次元の花嫁」より)

ここでThomas Raschkeという彫刻家の作品を見てほしい。これは紛れもなく三次元空間に、鉄の細い棒で3DCGのワイヤー・フレームのような立体作品を作っている作家である。三次元というふくらみのある空間だが、二次元の薄いオーラの広がりをもっているように感じられる。じっと凝視していると、あたかも平面に正確な遠近法で描かれた線画のように見えてしまう。

werken.jpg


線や面で説明してきたのだが、それだけではなく、最近は3DCGもフィジカル(物理シミュレーション)・レンダリングが一般化してきて、ほとんど実写と見わけの付かない画像や映像が増えてきた。だが、あきらかにCGには実写とは違う、厚みのある三次元方向に薄いひろがりをもったオーラをまとっているように感じられる。そこにCGのもつ固有の二次元と三次元のパサージュを見るとき、いまさら四次元でもないのだが、どうしてもデュシャンのアンフラマンスの概念が気になってしまうのだ。


| アート・デザイン | 23:15 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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映像の再構築。ビデオ・マッシュアップの可能性

最近は多くの動画サイトでも頻繁に目にする、既存の映像を混ぜ合わせ再構築した動画、マッシュアップ・ビデオ。著作権の問題が依然としてあるが、新たな映像世界のジャンルを構築しつつある。その可能性を探る意味で、いくつか気になった映像を紹介します。


まずは、宮崎駿作品のマッシュアップビデオ「ジブリズム」。非常に完成度が高く、音楽との同期が気持ちいい。





ADDICTIVE TV の作品「remix Antonio Banderas!」音楽と映像のリミックス。
samurai.fm」でも他の作品を見ることが出来ます。





これは大好き。「ビッグビートの若大将」。映画「若大将シリーズ」が観たくなりました。それで検索してみたら、こんなものを発見!「ゴジラ対若大将」。完成を見なかった映画だそうで、ストーリーがまったく想像つかないので、脚本だけでも読んでみたい。これも企画のマッシュアップ?





マッシュアップの王道?カンヌのショート・フィルムで絶賛された「FAST FILM」―300の映画作品より集められた約65000のモンタージュ。すごすぎる。「カンヌSHORT5」DVDに収録されています。





今やアメリカ大統領選の真っただ中。マッシュアップ・ビデオは、こんな使われ方もします。1984年のAppleのCMとヒラリー・クリントン。支持率下がるわけだ。





最後に、バラバラにした映像とスペクトラム解析をデータベース化し、マイク入力より取り出し、断片化した映像を再構築する未来のマッシュアップ装置(解説ビデオ)。
(ネタ・リンク SLN:blog*)





| 映像/アニメーション | 20:52 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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ちょっといいCM

最近、日本ではお目にかかれないシンプルで心温まるCM。

映像だけでストーリーを伝えるのはシンプルなアイデアが大事で、いつもこねくり回して考えてしまう私には「はっ」と気づかされる映像です。


「赤毛」




「髪を切る少女」


| 映像/アニメーション | 07:16 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「水と生きる」とフトマニの滝

futomani

 「水」について書き始めたのだが、水について考えることは嫌いではないし、それは作品を作る上での淵源にもなっている。しかし、極度に「水」を偏愛してるわけでもなく、あたりまえの話だが人間は多面体であるし、いろんなものに興味があり、「水」はその中の一つでしかない。当然、水について書くネタなど、すぐに尽きてしまう。その枯凋してゆく過程の中で、何かが剥き出しにされていくのを望んだし、それが作家としての流儀でもあると思っていた。だが、不思議なもので、私の頭の中では、そうしたネタが尽きる前に防御本能が働き、目ざとくあっちこっちでネタ探しをしていて、「水」という文字を発見すると、著しく反応してしまう自分がそこにはいるのである。

 六本木に用事があり、東京ミッドタウンにあるサントリー美術館の「水と生きる」展を見てきた。時間も余りなく、人混みのなかを足早に見て歩いたのだが、円山応挙の「青楓瀑布図」の前では足が止まった。

円山応挙


 まず最初に、黒々とした岩が目に飛び込んでくる。滝は、広げた薄い布地のように描かれ、右上から青楓がしだれる。
 デザイン的に言うと、右上から青楓の枝が中央まで伸びているので、岩を大きくして左に寄せたいところだが、黒い岩を中央に置き、滝を右に寄せることで、絶妙にバランスが保たれている。あくまでも主題は、黒い岩であるように思える。

 滝は古来より「神の座する場」として信仰されてきた。全国に残される水神伝承や滝に身を投げるという伝説は、そこが現世と他界の端境の場であり、また修行僧の魂が瀑布をくぐり抜け、異郷往来する通路としての役割も併せ持っている。言わば「滝」は、その霊力によって魂を異郷の地へ放ち、現世の穢れを洗い清め、新たな魂へと再生させる「場」として存在してきた。
 だとするならば、この黒い岩は神の座する岩なのであろうか。いや、それは違う。波しぶきに洗われるゴツゴツとした岩は現世のものであり、むしろ応挙自身の座する岩のように見える。荒波に生きる応挙自身が、頭上から垂れる青楓を、届きそうで届かない「やすらぎ」にも似た心として描き、滝は近くにありながら、遠い「清明心」の表れを描いているようにも見えるのだ。
 応挙にとって「滝」は、おのれを映す鏡であり、自身の鎮魂(たまふり)を行う場でもあったのかもしれない。それは古人が言い伝えてきた「フトマニ」の鏡を「滝」の中に映し見ていたように、私には思えるのである。

 太占(フトマニ)は、占いと同じ意味で使われることが多いが、それはあまり正しいとは言えない。むしろ神道が支えている背景の思想全体を指し示す言葉であると言った方が正確だ。「フト」とは「美称」を意味し、「マニ」は「神のまにまに」を意味している。また、蒲田東二の「神界のフィールドワーク」では次のように説明している。フトマニとは「物事が生起し、立ち現れる姿をその通り映し出し、その顕れる力や方向をそのまま実現すること」と述べている。
 神道の場合、仏教のように教典が残されている訳ではないので、正確な意味の表現は難しいのだが、我流で解釈させていただくと「物事は否定と肯定によってつくられるのではなく、自身を取りまく、良き事、悪しき事、ありようすべてを受け入れ、それらを肯定することによって生み出される「力」や「方向」を、あるがままに実現していくこと」がフトマニだと、私は解釈している。それは実にシンプルな態度だが、私たちにとっては、これほど保つのが困難な態度もないのである。

 円山応挙は、近世の日本の画家のなかでも際立って「写生」を重視したことで知られている。目前の対象を見て描くという絵画手法は、それまでの日本画にはみられない制作法であったため「写生派の祖」とも言われている画家である。
 つまり応挙は、それが現実の姿を写すのであろうが、たとえ架空の存在ながら心にあるイメージを写すのであろうが、「立ち現れる姿をその通り映し、ただ、あるがままを見つめよ」という古来からある「フトマニ」の思想を実践した最初の画家であったのではないかと思えるのである。
 「あるがまま」というのは、兎もすると消極的な立場であると取られるし、積極的に踏み込んで行かなければ解らない事もたくさんある。しかし、まず物事をあるがままに受け入れ、そしてそれが指し示す「方向」や「力」を素直に信じてゆくことの大切さを「フトマニ」の思想は教えてくれるし、そのことの意味を応挙は、写生を繰り返すことで実践してきたように私には思えるのだ。そして、この「青楓瀑布図」は、私にそれを再認識させてくれた「祓」であり、まさに「浄めの滝」となったのである。

 私は帰りの電車の中で、この「フトマニの滝」について考えながら、もう一つの「滝」について考えていた。それは、マルセル・デュシャンの「大ガラス」のことである。毎度、思考が分裂しているのは承知の上だが、デュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも」、通称「大ガラス」の作品は、上下二枚の縦長のガラスから成る「」のメタファーだと、私は解釈している。しかも「1 落ちる水、2 照明用ガスが与えられたとせよ」の背景にある「滝」と置き換え可能だとも思っている。もちろん、グリーンボックスの覚書にあるような理論的裏付けはないし、単なる独断的解釈にすぎなのだが、なぜか私はそう思うのである。


duchamp_chess


 まず、上の写真を見てもらいたい。デュシャンがギャラリーで「大ガラス」を背景に、裸の女性と向かい合わせでチェスをしているパフォーマンス写真だ。私はこれを見たとき、中国の水墨画にあるような深山幽谷の「滝」の前で、仙人が囲碁をしている絵を思い浮かべた。
 もともと「大ガラス」には、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」にあるような「向こう側へ通り抜ける連絡通路」のようなイメージを持っていた。(ちなみに「鏡の国のアリス」の物語は、チェスのルールと深い関係にあるとされている)それは日本の古来よりある「滝」のイメージと重なるばかりか、デュシャンはチェスをしながら意識を「滝(大ガラス)」の向こう側へと飛ばし、さながら修行僧のように異郷往来しているかのように見えるのだ。しかも、裸の女性を向かい側に座らせることで「ただ、あるがままを見つめよ」と語りかけている。まさに、「大ガラス」は「フトマニの滝」なのである。


 家に帰ってテレビを見ていたら、サントリーのCMが流れていた。CMの終わりに「水と生きる・サントリー」というCIが流れたとき初めて気が付いた。サントリー美術館で行われていた「水と生きる」展は企業メッセージそのものだったのだ。企業メッセージの宣伝のために入場料を払わされた者としては、なんだか収まりのつかない損をした気分がしたのだ。


<追文>
 私は沖縄の西表島にある「マリュウドの滝」に滝ごもり?したことがある。それは、滝壺に住む「大ナマズ」の捜索と「山伏ごっこ」をするためだ。大ナマズは、滝壺に何度も潜り捜索したのだが発見できなかった。そのかわり滝に打たれて修行をたくさん積んだ(笑)。

まりゅうど
(マリュウドの滝に打たれながら、魂を異郷の地へ飛ばし修行する筆者)



 「なまくさんまんだー、ばさらんなん、おんそわかや。ぽふっ。」

 どうだ!まいったかサントリー。「水と生きる」とは、こういうことなのだ。








| 複数形の水 | 09:40 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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彫刻の皮膚、羊水の水

「地球の肉体は魚類、鯨、または鯱の性質を持っている。なぜなら、空気のかわりに水を呼吸するから。—レオナルド・ダ・ヴィンチ」

 水中の彫刻家、ジェイソン・テイラー。
 http://www.underwatersculpture.com/index.html

jayson taylor01
ⒸJason Taylor


 彼は「人工礁」という彫刻を海へ放つ。それは彫刻の「種−シード」だ。
 種は海水という溶液を吸収して自ら発芽し、成長してゆく。

 自然には生産力が内在し、成るがままになるということではなく、没した瞬間、そこで解き放たれ、自由に「自らの解を生きる」ということになる。
 なぜなら、自然とは「おのずからなる」という意味なのだから。


 すべての彫刻は空っぽではなく、その内部にエネルギーを内在している。それは作家の魂にかかわる根源的なエネルギーだと思っている。
 たとえば平面絵画のエネルギーは、平面に対して外側へ拡散されるため、他との干渉を避けるように額縁でそれを止めたりもするが、彫刻のエネルギーは、フォルムの薄皮一枚内側へと溜め込まれるため、外部との干渉をおこすことはない。
 ヴィトゲンシュタインが「出来のよい彫刻は、身振り手振りで反応したくなる」と言ったのは、このことに由来してるように思うのだが、この海水のぶ厚いレンズを通して見た彫刻たちは、そのことすら薄められてゆくような気がする。むしろ、その彫刻内部に溜め込まれたエネルギーが、少しずつ海水へと融け出してゆき、その「水」を静かに呼吸しているかのように思えるのだ。それはまるで、羊水という溶液に抱きすくめられた胎児のように、幸福な光と静けさに包まれている。


jyason tayror02
ⒸJason Taylor


 この内在するエネルギーは、「霊(ち)」のエネルギーと言えるのかもしれない。
 霊(ち)とは、命の「ち」、血の「ち」、乳の「ち」であり、本来、命は「息(い)の霊(ち)」からきているとされている。自然生命が持つ原始的な霊格の一つで、根源的な「自然力」を意味している。私はこの「霊(ち)」エネルギーが海水へと融化し、満ちてゆく気さえするのである。
 ガストン・パシュラールは「水はすべての乳であると言わなければならない」、「海の水はただちに動物の水であり、あらゆる存在の最初の食糧である」と語っている。
 私たちの血液は海水の塩分濃度と同じである。地球が「海」という皮膚に覆われているように、私たちは「海」を皮膚にくるんでいる。そして母親がくるんでいる血液という「海」が胎児の最初の食糧となるのは言うまでもない。
 それに、人間の胎児は羊水を母乳の代わりに飲んでいる。しかも、その羊水は母親自身が作り出しているわけではなく、胎児自らそれを作っているのだ。いわば、母親から受け継いだ「霊(血)」を「乳(羊水)」として自ら作り出し、それを自ら飲んでいるのだ。

 この水中彫刻は、環境保護といったところとは、別なところで息づいている。
 自ら内在する「霊(ち)」のエネルギーを生命の羊水へと融化し、それを吸収しながら成長し、変化し続けることで自らの答えを導き出そうとしている。人間の胎児は羊水を飲み干したとき外へと生まれ出るが、この彫刻たちは決して生まれ出ることはないのだ。


 私は、この作家にお願いしたいことがある。

 環境保護にからめた水中彫刻パークといった陳腐な発想はやめて、生々流転、仏僧のごとく、海に彫刻たちを放ち続けてほしいのだ。
 たしかに、こうした活動を続けるには資金が必要だし、スポンサーを説き伏せるには美辞麗句も必要なことは解っている。しかし、彫刻はたちまち藻や貝殻、珊瑚が付着し、原型を留めないほどに変化する。やがて、どこにでもあるような自然の岩礁へと帰って行ったとき、彫刻本来の意味は失われる。そんな意味はどうでもよいのだが、それを環境保護という言葉ですり替えてしまうと、この行為そのものもが希薄で曖昧なものになってしまう。
 うまい言葉が見つからないのだが、日本人ならきっとこれを、「諸行無常」という言葉で表現するのではないかと思うのだが・・。


 レオナルド・ダ・ヴィンチの、下図ある「渦巻く始原」のような素描は、水煙が渦巻くように見えるが、どこか不自然なのだ。これを自然の原始的な「霊(ち)」のエネルギーのようなものをダ・ヴィンチが知覚していて、それを表現したものではないか、と指摘したのは歴史地理学者の千田稔氏である。


レオナルド・ダ・ヴィンチの素描



| 複数形の水 | 19:53 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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唐十郎とスピノザ、そしてフェルメール


 Looking through a glass onion.
 Oh yeah oh yeah oh yeah
 Looking through a glass onion.

 ガラス玉葱を通して眺めてごらん
 そうさ そうさ そうさ
 ガラス玉葱を透かして見えるでしょう

 (ビートルズ /「グラスオニオン」より)


 「ガラス」を水のメタファーとして扱う作家は多い。「唐十郎」も、その一人だと思っている。

 すでに1年以上前の話になるが、その唐十郎が、原作・脚本・主演と一人三役をこなした「ガラスの使徒」という映画を下北沢の小さな映画館で見た。


唐十郎演じる町工場の伝説的レンズ研磨職人が、冒頭から巨大レンズを尻で撫でまわすシーンから始まる。磨かれるレンズは常に水と研磨剤の皮膚に覆われ、レンズ職人は祈るようにそれを指紋で愛撫する。しかし、レンズとの蜜月も現実という波によって攫われてしまうことになる。ガラスの精の少女は人魚へと転身するように、ダム湖に沈んだ仕上げの研磨剤「化粧砂」を探しに水の中へ・・。夢のように光がたゆたうなか、現実と非現実が交差し、やがて物語は、乾いた水へと浸されてゆく。まさに、演劇人たちが創った、アンダーグラウンド・ファンタジーといった映画だ。

 実は、この映画がクランクインする前に、関係者からある頼まれ事した。それは美術監督からの要望で、工場のレンズ職人の部屋のセットの壁に、フェルメールの「天文学者」と「地理学者」の絵のポスターを貼りたいというものだったが、販売店を探してもどこにも売っておらず、撮影日も迫っていて間に合わないので、そのポスターを作ってほしいというものだった。
 画集からその絵をスキャンすることは、版元の権利を侵害することになるし、まして印刷物を引き延ばすと網点が目立ってしまうので、どうかと思ったのだが、セットの一部なのでそれほど目立たないし、それより撮影日に間に合わないということもあって、急ごしらえでそのポスターを作った。印刷の悪い古びた画集を使ったので色をごまかしたり、なるべく引き延ばされた網点も目立たないように修正した。ついでに富士山の写真が入ったカレンダーも頼まれて作った。そして、撮影は無事に始まることとなった。

 その数ヶ月後、朝日新聞の夕刊のコラムに、フェルメールの記事が載っていた。

 フェルメールの絵は正確な遠近法で描かれているため、「カメラオブスキュラ」という投影装置を使ってたのではないかという説が有力なのだが、そのフェルメールが使っていたカメラオブスキュラのレンズは、なんと哲学者「スピノザ」が研磨したものではないかという記事であった。しかも、二人の間に親交があって、書簡を交わしていた可能性も示唆していた。
 私は驚いた。たしかに、二人は同時期オランダで創作活動をしていたし、年齢も同い年である。スピノザがレンズ磨きで生計を立てていたという説は賛否があるが、研究のために研磨する技術を持っていたことは確かだ。それに当時は、カメラオブスキュラ自体が希少であっただろうし、レンズを研磨する技術も、誰もが持っているわけではなかったであろう。そのことを考えると、その可能性は高いと言える。

 私は、美術監督がそのことを知っていて、フェルメールの2枚の絵を選んだのではないかと思い、スタッフにメールで確認をしてみたところ、美術監督をはじめ監督も知らなかったと聞かされ、さらに驚いたし、相手も驚いていた様子だった。フェルメールの絵を選んだのは「偶然」だったのである。

 私は、映画館の暗がりの中でスピノザのことを考えていた。唐十郎演ずるレンズ職人を哲学者スピノザと重ねるように観ていたのだ。
 スピノザは神学者でありながら「自然こそ神」という汎神論を唱えた哲学者である。それは神道のアニミズムの思想にも似ている。アニミズムは野蛮で神秘的なものではなく、アニミズムとマテリアリズムの統一であるとドゥルーズが指摘しているように、スピノザは実在としてのレンズのなかに、自然の「神」を見ていたのではないだろうか。唐十郎は、この映画に寄せるメッセージの中で「葉子(主人公の少女)は、レンズを通過した太陽光線の、一点の絞りに耐え、アニミズムの神が、「どうだ熱いだろうと言ってる」と伝える」と語っている。唐の表現を借りれば、唐十郎は、まるでスピノザと同衾(どうきん)したがっているようなのだ。(同衾とは、一つの布団に一緒に寝ることだそうだ)

 2004年、偶然にも、そのオランダで「流体レンズ」が開発された。液体の表面張力を電圧で制御し、自由に厚みや球面を作り出すことが出来る。もう、ガラスを研磨する必要はなくなるのである。レンズは、固体から液体へ、正確に言うなら「自ら形を持たないソリッドな流体」へと変移していくのだ。
 スピノザも唐十郎も、その研磨する指先で、堅いガラスがアラビアゴムのように溶け出し、液状化していくような既視感を幾度となく知覚していたに違いない。ガラスは自らの固い殻を打ち砕き、やがて純真無垢な水溶液へとメタモルフォーゼしていくようなのである。ちょうど主人公の葉子が、そうであったように・・。

 映画が終って人々が席を立ち始めた頃、関係者から「名前見ました?」と聞かれた。私は一瞬「え?」と思ったが、すぐに解った。映画のエンドロールに私の名前を入れていてくれたのだ。それを私は、ついぞ見逃してしまった。


グラスオニオン


 ビートルズのグラスオニオンを初めて聞いて以来、ガラス玉葱をずっと丸のままの玉葱としてイメージしていた。しかし、ある時「ふっ」と思った。玉葱を半分に切って、肉皮を一枚めくると半球面のレンズのように見えるではないか。しかもジョン・レノンはビートルズ中期頃から、あの丸い眼鏡を掛けはじめている。グラスオニオンのガラス玉葱は「レンズ」のことでもあるのだなぁと、その時思ったのだ。

| 複数形の水 | 04:04 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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雪片曲線とわらべうた


 雪はなぜ、神になれなかったのだろうか?
 山も木も滝も岩も水も石も、神々になれたのに、
 なぜ、雪だけが神格化されなかったのだろうか。
 雪は、いずれ水に変移してしまう。
 ただ、それだけの事だったのだろうか・・・。


 上見れば 虫コ
 中見れば 綿コ
 下見れば 雪コ

 誰もが知るところの秋田のわらべうたである。綿をワダと発音し、雪をユギと発音する民衆詩の傑作だ。
 これについて『うたの思想』で松永伍一は次のように解説している。
 「上の方では虫に見え、中ほどでは綿に見え、足もとは雪だ、という観察は自然を追いながら自然に没入しない人間をそこに押し立ててはいないか。主体は人間なのである。美しいと感じ入って自己をむなしくしていくのではなく、自然を向かい側におくことによって生活者の自己をそこに位置づけるという「いどむ」態度だ。・・」

 このうたは、日本の「雪月花(ゆきつきはな)」に代表されるような美を感受する風雅さも、自然にいだかれた小さな受け身の存在として没入する風情さもない。つねに自然を自己の向かい側へと押し立てている。生活者としての「いどむ」態度も、能動的な力強さはなく、淡々として、むしろ真空状態の感受にも似ている。無音に響き合うなか浮遊感すら漂うが、自己は地に足をつけていて、自然はその対岸にある。

 この自然に対する知覚感覚は、応用数学にとても近いと感じた。


 まず正三角形をおく。それに上下を反転させた三角形を重ねると六芒星ができる。その六芒星の一辺それぞれに、1/3の小さい三角突起を作る。さらに、またその一辺に1/3の三角突起を作り、それを数段階繰り返すと、雪片のような結晶模様が出来る。これが「コッホの雪片曲線」である。

コッホ雪片
>> こちらに、6段階描画したコッホ雪片があります。


 雪片曲線は、自己相似を繰り返す数学的な作り物であって、雪の結晶とは直接関係はない。しかし私たちには、雪の結晶模様のように見えてしまう。これは「雪」が虫に見えたり、綿に見えたりするのと似ていて、いわば数学の「直感」なのだ。しかも、その直感は当たっている。
 自然の成り立ちというのは、単純なものが、規則的な動作を繰り返すことで、きわめて複雑な世界を作っている。常に単純さと複雑さが同居しているのだ。このことを「雪片曲線」は雄弁に語っている。また、おもしろいことに、この曲線は、図形が外側に拡散していくのに対して、逆に面積は収束していくのだ。これも神様のいたずらとしか思えない。

 この「雪片曲線」も「秋田のわらべうた」も、言いかえれば自然を抽象化した遊びでしかない。しかし、リアルな遊びである。自然を向かい側に置き、解けない問に対して自ら何かを設定し、解こうとしている。その点では同じ彼岸に立っているように思える。


春の雪
(c) Kazuhiro KOBAYASHI 春の雪


 私は自分の作品に、「フラクタル」を要素として取り入れている。フラクタルは、自然の理法を純化した数学である。その点では自然を向かい側に置いているし、風雅や風情に没入することもない。だが、決して「雪月花」の風情が嫌いなわけではない。むしろ、とても好きだ。しかし、今問題化している温暖化や異常気象などの環境変化の中で、風雅人よろしくそれを描いていても、ただ、額に貼り付けた「絵」でしかないと思うのだ。
 さらに、自然は見えない形で変化しはじめている。たとえば、ゲノム・プロジェクトがスタートしてからすでに、ヒトゲノム解析が完了し、自然生物全体がゲノム解析されようとしている。自然の真の中心に「遺伝的アルゴリズム」が置かれたとき、「自然」は完全に神の手から離れる。この流れはもう、誰も止めようがない。
 そう成りつつある今、私たちは「雪」を見て立ちすくむ童子のように、自然を向かい側に置き、淡々と、しかも「いどむ」態度で見つめていくしかないのだ。そして、そのなかで自然との寄り添い方を、模索していくしかないのではないだろうか。


 私の母の名は「雪江」という。
 すでに他界したが、白いレース編みの編み物が唯一の趣味だった。気の遠くなるような単純な編み目を繰り返し、複雑な模様を編み込んでいく。どこか雪片曲線とイメージが重なる。むろん、母はそのことを知るよしもないが、「雪」という名のイメージから、そのことをおぼろげに知覚していたのかもしれない。

| 複数形の水 | 00:54 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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